きくち城に行きましたよなかなか良いところですよ菊地に行かれたら寄ってみたら、面白いお城です
【熊本】古代に栄えた山城!ロマンある鞠智城の歴史
菊池川の上流域、丘の上に建つ山城、それが鞠智城(きくちじょう)だ。時は7世紀中頃、太宰府政庁が置かれた大野城と基肄城(きいじょう)、そしてここ鞠智城の三山城が作られた。国史跡鞠智城を訪ねます。
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更新:2024年12月12日 13:00
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鞠智城は、 7世紀後半に大和朝廷が築いた山城です。
菊池市と山鹿市にまたがる宏大な土地に、倉庫や鼓楼が居並ぶ様は、どうしても想像出来かねます。
全国から多くの民が集められ、防人として任務を遂行することになったそうです。
(※「歴史公園鞠智城・温故創生館」より)
菊池市と山鹿市にまたがる宏大な土地に、倉庫や鼓楼が居並ぶ様は、どうしても想像出来かねます。
全国から多くの民が集められ、防人として任務を遂行することになったそうです。
(※「歴史公園鞠智城・温故創生館」より)
事の発端ですが、当時アジアの情勢は、「日本と百済」連合VS「唐、新羅、高句麗」連合が一触即発の状態です。
遂に663年の白村江で勃発。
この戦いで日本は敗北してしまった。
次は日本に攻め入る可能性が出てきた為、大野城、基肄城、金田城を築いて太宰府を守る準備をしたと云う。
その為の資材、食糧庫が鞠智城だったそうです。
(※「歴史公園鞠智城・温故創生館」より)
遂に663年の白村江で勃発。
この戦いで日本は敗北してしまった。
次は日本に攻め入る可能性が出てきた為、大野城、基肄城、金田城を築いて太宰府を守る準備をしたと云う。
その為の資材、食糧庫が鞠智城だったそうです。
(※「歴史公園鞠智城・温故創生館」より)
貯蔵施設が居並ぶ倉庫エリアを離れて灰塚展望台へ向かう。
灰塚展望台からは、ほぼ360度パノラマが広がる。
眼下には菊鹿平野の条理制を採用したばかりの水田が広がったに違いない。
目を凝らせば、遠く山の稜線に山鹿の不動岩が見えている。
灰塚展望台からは、ほぼ360度パノラマが広がる。
眼下には菊鹿平野の条理制を採用したばかりの水田が広がったに違いない。
目を凝らせば、遠く山の稜線に山鹿の不動岩が見えている。
かつて、関東周辺から集められた防人は、西海道支援の為九州へ向かった。
彼等を3年間の孤独な労働が待っていた。
故郷に残して来た家族への思いを歌に読ませた防人の歌もまた、万葉集に編纂されているらしいですよ。
彼等を3年間の孤独な労働が待っていた。
故郷に残して来た家族への思いを歌に読ませた防人の歌もまた、万葉集に編纂されているらしいですよ。
いかがでしょうか?
鞠智城の八角鼓楼の姿は、日本らしくなくて、どこかアジア系の塔のように思われます。
唐に敗退した百済人を日本へ招いて、彼等の技術によって山城が築かれましたとさ。
日韓関係は、この頃から続いているのですね。
鞠智城の八角鼓楼の姿は、日本らしくなくて、どこかアジア系の塔のように思われます。
唐に敗退した百済人を日本へ招いて、彼等の技術によって山城が築かれましたとさ。
日韓関係は、この頃から続いているのですね。
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