和歌山県から飛び出して伊勢神宮へ参拝してきました!#おでかけ

伊勢神宮は、正式には「神宮」と呼びます。 神宮は一つの社だけを意味するのではなく、二つの相並び立つ「内宮」(皇大神宮)と「外宮」(豊受大神宮)の2社を中心に、別宮、摂社、末社、所管社を含めた125社からなっています。 八百万の神々が具現化したような聖地なわけです。 参拝方法としては、まず食の神様豊受大御神(とようけおおみかみ)を祭る外宮から参拝し、次にバスなどにのって、天皇家の祖先神であり太陽神のアマテラス(天照大御神)がまつられる内宮を参拝します。 そして皆さまは【伊勢神宮七つの秘密】をご存知でしょうか? 【伊勢神宮七つの秘密】について、ご紹介したいと思います。

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ひろあき
その1
【アマテラスの父母が祀られていなかった】
伊勢神宮の神様はアマテラス。
彼女のお母さんは、日本神話で有名なイザナギとイザナミ(兄妹婚)です。

アマテラスが神宮の主神である以上、当然、有名な神様である父母だってまつられていて不思議じゃない。
なのに、ずーっとご両親は無視されてきたのです。

そしてとうとうご両親キレました!

772年(宝亀3年)8月6日に、伊勢のイザナギ・イザナミ神(および弟の月読神)が祟ったのです。
続日本紀によると、異常な風雨で樹木を根こそぎにされ家屋が倒壊したとあるので、おそらく伊勢湾台風級の台風被害だったのでしょう。

そこで、朝廷はあわてて、イザナギ・イザナミを官社(朝廷直轄の神社)としてお祭りすることになったのです。
なんで、そんなことが起きたのかというと、もともと伊勢神宮の神様は「アマテラス」と呼ばれていたかも定かでないけど、神様の中でも別格の神様でした。

その「別格神様」を、飛鳥時代の律令制(国際化)にあわせて天皇家の祖先ということにしたことでできたスキマだったと考えられます。

「もともとのイセの神様」(別格すぎてお父ちゃんやおかあちゃんはいない)+「天皇家で一番偉い神アマテラス」(天皇家の神々でも別格だけど、父ちゃん母ちゃんはいる)=「伊勢神宮のアマテラス」
と合体したときに、父ちゃん母ちゃんを忘れてしまっていたということですね、はい。
ひろあき
その2
【伊勢神宮にも付属の仏教寺院があった】
神宮寺と聞くと「サクラ大戦」のヒロインや「リク」の悪者を思い出すのですが、それはともかく、明治時代以前は、有名な神社と仏教寺院はほとんど同居していました。

神社の境内などにある神社付属寺院のことを「神宮寺」と呼びます。

それを神仏習合というのですが、でも神社オブ・ザ神社の伊勢神宮だけは、そんな「不謹慎な」ことはなかった、、、はず。

ところが、先の772年の記事にも「伊勢神宮寺を移転した」とあるように、奈良時代には、神宮寺を持っていたのです。

しかし、平安時代になって「あれ? ちょっとおかしくない」という矛盾に気付いてきて、820年にできた法規集「弘仁式」で、伊勢神宮も「ちゃんとしよう」ということでマニュアル(伊勢太神宮式)が作られます。

あわせて、この頃、「仏」や「塔」など仏教に関する言葉は伊勢神宮においては禁忌(タブー)とする「神宮忌詞(いみことば)」ができ、仏教は排除されます。

神宮への勅使に任命された貴族は、選ばれたその日から仏教儀式をすることは禁止。
僧侶や尼との接触も禁止されます。

一度は、”廃仏毀釈”した伊勢神宮ですが、平安時代もおわりになると、日本社会として神道=仏教の一体化が進むために、仏教排斥は緩くなっていきます。

儀式としての廃仏は続行しますが、東大寺の復興に全国を飛び回った重源が東大寺再建祈願のために僧侶60人で参拝したのをはじめ偉いお坊さんたちもたくさん伊勢をお参りしています。(重源さんの場合は、さすがに60人の僧侶団体参拝はまずいと、外宮では深夜に、内宮では2、3人に分かれて参拝したそうです)

中世末期の絵図には、境内にお寺も見えます。

仏教強し……。
ひろあき
その3
【おさいせんを投げてはいけません】
伊勢神宮を初めて訪れた人は、正殿への階段をのぼり、いざ!というときに肩すかしをくらうことが多いかもしれません。

正殿の前には、「おさい銭箱」がないのです。

伊勢神宮の最も重要な規定は「私幣禁断」。
つまり、個人的な願いをかなえようと手を合わせてはいけません、ということ。
出雲大社が「恋愛の神」として女性に人気なのとは大違いです。

わりと有名な「禁止事項」ではありますが、具体的にはどのようになっているのでしょう。
平安時代にできたマニュアル「伊勢太神宮式」では、「天皇以外の者が奉幣すること」が禁止なのです。
つまり、つまり、そもそも、われら民衆が参拝することすら本来はまかりならなかったのです!
ひぇーーー!

幣というのは、神様への貢ぎ物(プレゼント)。
恋愛関係にたとえれば、1億人のアイドルアマテラスではなく、天皇とオンリーワンの関係を結ぶ深窓の令嬢といったところでしょうか。

とは言っても、パトロンである朝廷の力が落ちていくと、(神様はともかく)そこに仕える神職らの生活を支えるために、ある意味で伊勢神宮で最も重要な規定は、形骸化されて、今にいたるのです。

ですので、せめて一番奥の正殿に手を合わせるときは、「世界平和」など個人的ではない願いを祈り、恋愛成就などの私的なお願いは、神楽殿やほかの摂社などで頼みましょう。
おさい銭箱がない、つまり、アマテラス様に直接プレゼントできる権利は、いまも一般には公開されていないのです。

内宮も外宮も白い敷布が敷いてあって、そこにはおさい銭がちらほら見られますが、あれは、だめと言っているのに、おさい銭を投げ込むやからがいて、お金が地面に接触して聖域が穢れてしまうのを防ぐための「防御装置」です。
これから参拝する人は、絶対にお金を投げてはいけません。(遷宮後にはあまりにもおさい銭を投げる人が多いので、向かって右側に仮設のおさい銭箱が設定されています、せめてそちらに入れましょう)
ひろあき
その4
【天皇が伊勢神宮を参拝したことはなかった】
意外かもしれませんが、実は江戸時代までの歴代の天皇で伊勢神宮を参った天皇はいませんでした。
なんと、初めて参拝したのは明治天皇だったのです!

廃仏毀釈をはじめとする明治時代の「国家神道」というものが、いかに日本本来の歴史と伝統からかけ離れた「作られた伝統っぽい文化」だったことの証拠のひとつです。

伊勢神宮が、アマテラス大神をまつる国家第一の神社として存在したことが、歴史上間違いなく言える、ぶっちゃけ言うと、「日本NO1の伊勢神宮を創設した」のは、飛鳥時代末の天武天皇と考えられています。

ひろあき
その5
【伊勢神宮の地は「ヤマト」の発展から取り残された地域だった】
と、表題のように言い切るのはガクブルなのですが、「釣りタイトル」としてご勘弁を。

なにをもって取り残されていたかというと、考古学的にみると、伊勢神宮のある南伊勢という地域が、ヤマト=古墳文化が広がるのが全国的にみても遅い、ということです。

古墳(前方後円墳など)というのは、3世紀中頃にヤマト(奈良県)で確立して、大仙古墳(仁徳陵)などができた絶頂の5世紀には、ほぼ日本列島中くまなく広がるのですが、伊勢南部については、「南勢地域の古墳文化が目立ち始めるのは更に遅れて六世紀以降」となります。

出雲大社のある出雲が、弥生時代からのちのヤマトや北九州に匹敵する高く広大な文化圏を広げていたのとは対照的な「歴史の空白ぶり」なのです。

だれが「文化の後進地区」だった南伊勢を、神道文化の頂点の地にしたのか?
古代史の最大のミステリーといえるかもしれません。
伊勢神宮は大中臣氏がずーっとコントロールしています。
中臣氏というのは、藤原氏の母体ですから、藤原不比等あたりかな~と安易に考えますが、「なんでも藤原謀略論」に与するのもなんなので、想像はここらへんにしておきます。
ひろあき
その6
【アマテラスに仕える巫女「斎王」は永遠に処女なのか?】
斎王というのは、「さいおう」と呼びまして、伊勢神宮につかえる皇女のことをいいます。
繁栄した都から、魚や赤福(まだないって)がおいしいといってもデスコもクラブもない伊勢へ、独身の身で行くのはつらいことだったでしょう。

漫画やドラマの題材にもなっている斎王ですが、その悲劇性が強調されるのは、神につかえる巫女なので、その間は結婚できない、という点です。

飛鳥時代に父の天武天皇から「お前、斎王なってこい」と命じられたのが、大伯皇女(おおくのひめみこ)です。斎王になったのは、14歳。
そして12年後に帰京します。
26歳というのは、現在ならピチピチもピチピチなギャルですが、当時は完全に婚期を逃しています。
でも、まだセーフな年で帰京できた(した)のは、むしろ背景には悲劇があったのです。

大伯皇女は、天武死後に謀反の疑いで処刑される大津皇子のお姉さんです。
弟がこっそりと伊勢の姉に会いに来たことがありました。
シスコンなんですね。
たぶん、ヤマトタケルが斎王だった姉のヤマト姫(草薙の剣をもらった)にならって、天武後の後継者争いについて相談しにきたのでしょう。
でも、姉はわたす剣もなく、泣く泣く帰らせるのです。
で、その後、弟はアボーン。

この弟の謀反に連座という形で、皇女も斎王を解任され、都へ戻ります。
その時に歌ったのが
<ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり超ゆらむ>
複数でも大変な伊勢―大和間の山道を、たったひとりで越えてきたのか、かわいい弟よ、うわーーーーーん(現代語超訳)

ともかく、斎王に選ばれると、青春時代の多くを男と恋愛なくすごすことになります。
とはいっても、任期はだいたい数年から10年くらいというケースが多かったようです。
そのため、斎王を務めたあとに結婚した人もたくさんいます。

聖武天皇の娘、井上内親王。
斎王後に、のちの光仁天皇となる皇族と結婚。
玉のこしハッピーエンドとなりそうですが、なぜか天皇となった夫をのろい殺そうとしたとして、「離縁」され、幽閉されて殺されています。のちに怨霊となっています。。。
桓武天皇の娘、朝原内親王。
斎王は18歳で終了。
平城天皇(桓武の息子、つまり兄妹婚)と結婚しています。
でも、平城天皇は「おれの妹がこんな斎王なはずはない」と無視して、藤原薬子という「悪女」とよろしくやって、薬子の乱とか引き起こします。

斎王の女性は結構、波乱万丈ですねぇ。。。
まるで波乱万丈の女神アマテラスの生き様を体現しているかのように。。。
ひろあき
その7
【正殿の高床式は弥生文化なのか】
瑞穂の国の人だもん。
稲作が本格的に普及したのが弥生時代、その米を備蓄するために立てられたのが高床式倉庫。

伊勢神宮の正殿も高床式な「唯一神明造り」なので、たいてい「弥生時代に見られる特徴で、そうした弥生の古式の建築文化が残されている」という説明をされています。
こういうもっともらしい定型文はたいていあやしいところがあるんです。
現代は車社会である。
車といえば、もとはアメリカのフォードが作った。
つまり、現代の日本は、アメリカ文化である、的な。。。

技術というのは継続されるもので、文化とは別もの。
同じ高床式倉庫でも、弥生、古墳、奈良、平安と時代ごとに「大きさ」が異なっているという指摘をされています。
たんに「貯める」という要素は同じでも、誰が貯めるかによって、それを必要とした社会の形=文化も違ってくるもの。

伊勢神宮正殿(3間×2間、内宮)の面積は約61平米。
これをまとめた時代ごとの高床式倉庫の面積の表にあてはまると、見事に「奈良時代」の範疇にピンポイントでおさまるのです。(古い時代はもっと小さい)
これは、ことさら「弥生時代にさかのぼるふるーい伝統建築様式」と強調するのは、ちと誤解をまねくことになるといえます。
弥生時代には存在できないほどの大きさであり、律令国家の奈良時代と同じ面積ということは、神宮の正殿は、飛鳥時代や奈良時代の朝廷が最先端の建築技術を駆使してつくった「最新インテリジェントビル」だった可能性が高いのです。
以上が【伊勢神宮七つの秘密】でした!
いかがでしたでしょうか?
ビックリされましたか?
この雑学を頭に入れて、伊勢神宮を参拝したら、違う角度からの伊勢神宮が見えてきますよ!
#おでかけ
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更新日:2024年12月23日

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