からっ風②さんが投稿した口コミ

明菜にとって1984年は勝負の年だった
 【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】
 中森明菜の7枚目のシングル『北ウイング』
 「当時、松田聖子さんと中森明菜さんはアイドルの両横綱でした。ただ2人の違いは…明菜さんはスロースターターというのか、じわじわといくタイプだと思いました。(制作現場の意向で)レコーディングには行けませんでしたので、デモテープでの判断になってしまいますが、とにかく一気に伸びるわけではなく、回数を重ねていく中で完璧なものができあがっていく…。しかも自らイメージを作り出して変えていく。そんなタイプのアイドルでした。ですから作品も最初と完成のときでは見違えるほど違う。常にステップアップしていくというか、完璧主義なのでしょうね」
 『北ウイング』の作曲とアレンジを担当した林哲司は、明菜についてそう評価するが、同曲について評論家の中川右介は著書『松田聖子と中森明菜(増補版) 一九八〇年代の革命』(朝日文庫)で次のように記している。
「一九九二年、第二ターミナルができると同時に第一ターミナル北ウイングは改装工事に入り、九九年まで閉鎖されていた。この北ウイングが閉鎖されていた時期は、中森明菜が多くのトラブルとスキャンダルに見舞われ、歌手活動が混迷していた時期とほぼ重なる。中森明菜のファンは成田に行き、北ウイングが閉鎖されているのを見るたびに、彼女の不幸に思いを寄せたものだった。工事による北ウイングの閉鎖と中森明菜の混迷ぶりに因果関係があるのではないかと思えるほど《北ウイング》は彼女にとって重要な曲だった」
 その『北ウイング』が発売されたのは84年1月1日だった。前年は「賞レース」、さらには「NHK紅白歌合戦」と大みそかまで『禁区』一本に絞ったこともあって、『北ウイング』の露出展開は「正直厳しかったのではないか」と分析する音楽関係者もいるが、1月9日付のオリコンのシングル・チャートは初登場2位となった。林は振り返る。
 「1月1日発売というのはレコード会社の戦略で、誰もが84年の最初の1位は中森明菜だと思っていたはずです。当然、僕もプレッシャーのようなものを感じていたのですが…。それが2位と聞かされ正直ショックというか

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