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 縄文文化の王者 火焔土器
 於、2022/10/27 長岡市 馬高(うまたか)縄文館

 緩い丘陵地の斜面を登っていくと、大きなモニュメントが目に入った。
 モニュメントに認められた文字を追うと、『 縄文文化の王者 火焔土器 昭和 11年 12月 31日、近藤篤三郎 此処馬高台地にて発掘、火炎と命名 』とある。
 訪問して分かったことだが、「火焔土器」と呼ばれるものは此処馬高縄文館にあるたった一つの土器のことを言うそうだ。他とは火炎型土器として区分されている。
 昭和 11年 (1936年) 大晦日の 12月 31日に近藤篤三郎氏によって発掘され、燃え盛る様な炎の形状から「火焔土器」と命名された。
 我が国に縄文ブームを引き起こしたのは、青森県の三内丸山遺跡であろうか?
 教科書で教えられる内容は一ページにも満たないものの、今や、誰もが日本文化のルーツは縄文文明だと思っている。

 ・・・残念ながら半世紀前まで日本美術史に縄文は存在しなかった。縄文の美を再発見し、日本美術史を書き換えたのは岡本太郎である。
 岡本太郎が 1952年に「四次元との対話 縄文土器論」を発表するまで、縄文土器や土偶は美術品ではなく工芸品という扱いを受けていた。
岡本太郎と縄文の出会いは、東京国立博物館の一室。考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫んだという。
「なんだこれは!」
岡本太郎はソルボンヌ大学で、民族学を修めており、芸術家であり民族学者でもある太郎が、火焔型土器の写真を載せた「縄文土器論」で提示したのは、考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈であった。
それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームが沸き起こったのである。
それは、弥生土器や埴輪を始まりとする「正統な」日本の伝統をくつがえし、以後、原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられたのだ。
今に続く縄文ブームの火付け役は、岡本太郎なのであった。
太郎は、火焔土器を「深海」に見立てたそうだが、貴方には何が連想されますか?  

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