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【新熊野大社】

当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。
 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。
 その後350年間、当社は繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。

公式サイトより

I〜2枚目、熊野に係る神社の御神鳥の八咫烏
3枚目、本殿
6枚目、社頭の「大樟」は当社創建の折、紀州熊野より運ばれた「上皇手植えの樟」と伝えられており、樹齢は900年と推定されています。影向とは神仏が現われるという意味で、現在では「樟大権現」「樟龍弁財天」として多くの人々に信仰されています。大権現とは熊野の神の化身(仮の姿)、樟龍弁財天とは弁財天(仏)の化身という意味です。樹齢900年の老木でありながら現在でも成長し続けている姿を見て、「健康長寿」「病魔退散」、特に「お腹の神様」として御利益を求める人が後をたちません。(京都市指定 天然記念物)
サイトより

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